2025年03月31日
朝永振一郎博士と島田市 020 終章
朝永振一郎博士と島田市との関係を考察するシリーズはこれで最後です。
戦後、朝永博士は島田理化工業の顧問を務められました。島田の海軍研究所の関係者が戦後に設立したマイクロ波技術の会社という繋がりが重視されたためと思われます。後に島田市長となった森昌也氏も顧問の一人でした。
下記上段の写真は島田理化工業において撮影された集合写真の一部を切り取ったものです。知る人ぞ知る「凄い」面々です。朝永博士や小谷博士についてはすでに触れてきましたが、岡村総悟博士と渡辺寧博士についても述べずにはいられません。日本の電子工学の発展に大きく寄与されたお二方です。半導体集積回路や光ファイバ通信という全く新しい技術分野で世界の最先端を創造する、そのような偉業を成し遂げたお弟子さん達を数多く輩出されています。
1949年に朝永博士は米国ニュージャージー州プリンストンにある高等研究所から招聘され、量子力学研究を米国で進められました。ここで有名なアインシュタイン博士と同僚になりました。どんな議論が交わされたのでしょうか?なお、プリンストン高等研究所は篤志家による私立研究所である旨、強調させて頂きます。下記中段はその全景です。また、この年に東京文理科大学は東京教育大学となっています。
朝永博士は1956年、50歳の時に東京教育大学の学長に就任されました。現在の感覚からは「かなり若い学長」です。その際、「政治家になってしまった」と周囲にこぼされたそうです。朝永博士の祖父に当たる方もある意味で政治家だったので、そのDNAが発現されたのかもしれません。祖父の朝永甚次郎(かんじろう)氏は大村藩(現在の長崎県)の俊英家臣として明治維新を迎えたようで、1871年の岩倉具視遣欧使節団に旧藩主と共に加わっています。また、この「政治家になってしまった」時期、朝永博士は様々な要職を担う忙しい中、世界の平和運動にも積極的に参画されています。
下記下段は朝永博士の授業風景です。後ろの席の学生にも分かり易いように太くてしっかりとした文字で板書されています。教育者としての配慮が滲み出ている一枚と感じ入りました。
以上、「朝永振一郎博士と島田市」の連載(000~020)を最後までご高覧頂き、誠にありがとうございました。ご意見など、頂戴できれば幸いですし、間違いなどのご指摘はさらに歓迎させて頂く所存です。どうぞよろしくお願い致します。なお、本連載は島田科学技術教育振興会の活動の一環として準備させて頂いた旨、末筆にてご案内させて頂きます。
このシリーズの最初はこちらにあります。



戦後、朝永博士は島田理化工業の顧問を務められました。島田の海軍研究所の関係者が戦後に設立したマイクロ波技術の会社という繋がりが重視されたためと思われます。後に島田市長となった森昌也氏も顧問の一人でした。
下記上段の写真は島田理化工業において撮影された集合写真の一部を切り取ったものです。知る人ぞ知る「凄い」面々です。朝永博士や小谷博士についてはすでに触れてきましたが、岡村総悟博士と渡辺寧博士についても述べずにはいられません。日本の電子工学の発展に大きく寄与されたお二方です。半導体集積回路や光ファイバ通信という全く新しい技術分野で世界の最先端を創造する、そのような偉業を成し遂げたお弟子さん達を数多く輩出されています。
1949年に朝永博士は米国ニュージャージー州プリンストンにある高等研究所から招聘され、量子力学研究を米国で進められました。ここで有名なアインシュタイン博士と同僚になりました。どんな議論が交わされたのでしょうか?なお、プリンストン高等研究所は篤志家による私立研究所である旨、強調させて頂きます。下記中段はその全景です。また、この年に東京文理科大学は東京教育大学となっています。
朝永博士は1956年、50歳の時に東京教育大学の学長に就任されました。現在の感覚からは「かなり若い学長」です。その際、「政治家になってしまった」と周囲にこぼされたそうです。朝永博士の祖父に当たる方もある意味で政治家だったので、そのDNAが発現されたのかもしれません。祖父の朝永甚次郎(かんじろう)氏は大村藩(現在の長崎県)の俊英家臣として明治維新を迎えたようで、1871年の岩倉具視遣欧使節団に旧藩主と共に加わっています。また、この「政治家になってしまった」時期、朝永博士は様々な要職を担う忙しい中、世界の平和運動にも積極的に参画されています。
下記下段は朝永博士の授業風景です。後ろの席の学生にも分かり易いように太くてしっかりとした文字で板書されています。教育者としての配慮が滲み出ている一枚と感じ入りました。
以上、「朝永振一郎博士と島田市」の連載(000~020)を最後までご高覧頂き、誠にありがとうございました。ご意見など、頂戴できれば幸いですし、間違いなどのご指摘はさらに歓迎させて頂く所存です。どうぞよろしくお願い致します。なお、本連載は島田科学技術教育振興会の活動の一環として準備させて頂いた旨、末筆にてご案内させて頂きます。
このシリーズの最初はこちらにあります。
↓ 島田理化工業での集合写真からの切り抜き。左から岡村総悟博士、渡辺譲博士、朝永博士、渡辺寧博士、小谷正雄博士。こちらから転載させて頂きました。

↓ プリンストン高等研究所。こちらから転載させて頂きました。

↓ 東京文理科大学での朝永博士の授業。板書をきちんとされています。こちらから転載させて頂きました。

2025年03月20日
朝永振一郎博士と島田市 019 「80%」の意味
ここでは、先の推論の結論「ノーベル賞の繰り込み理論が島田で発案された可能性は80%」の意味を考えてみたいと思います。
〉
一般に、優れた研究成果が輩出された際、その研究を実施した個人およびグループは、当然、賞賛されます。と同時に、その研究が実施されるための環境を整えた人々も称賛されます。
〉
実験による研究では、多くの場合に、実験装置の整備が必要で、そのための費用が必要です。ノーベル賞の対象になるような「他の誰もがやっていない」という新規性、すなわちリスクの極めて高い研究の場合、周囲の理解が浅いと装置整備の費用を得ることができません。「投資は無駄、ものにならないかもしれない」という危険性が高い野心的研究に対しては上司や周囲の理解が必要です。これらの人々の勇気と判断力も称賛されるべきという考え方です。
〉
それでは、理論研究はどうでしょうか?朝永博士の繰り込み理論の研究はまさにこの理論研究でした。「理論研究は紙と鉛筆があればできる」とよく言われます、朝永博士は加えて計算尺を用いておられたようですが、装置整備の費用はほとんど不必要そうです。むしろ、周囲にどのような人々がいるかを含む環境が肝要ではないでしょうか?朝永博士は中間子研究会や物理学会で湯川博士とよく議論を交わされたようです。また、ドイツ留学中も日本の湯川博士のことが念頭にあった旨、書物に記しておられます。中学、高校、大学、無給助手時代、これらのそれぞれで机を並べた湯川博士の存在はもちろん、ハイゼンベルク博士との交流や仁科芳雄博士の下での理化学研究所生活も朝永博士の環境の一つだったといえるでしょう。
〉
肝心の1945年、朝永博士にとっては空襲に追われる日々からの解放は「研究環境」という意味で大きかったのではないかと考えられます。また、京都の自然に親しむ少年時代を送られた朝永博士は、生物学者も選択肢とされたほど自然がお好きだったようです。『回想の朝永振一郎』(みすず書房)の表紙は朝永博士の描かれた荻窪1丁目の田園風景です(荻窪には一時住んでおられたようです)。また、さらなる郊外の武蔵野市の境南町に住まわれた際も「堆肥のにおいからふるさとを思い出した」と残しておられます。大学のあった都心ではなく、郊外に住居を求められた朝永博士の嗜好がなんとなく分かります。
〉
そのような朝永博士に1945年の島田の環境はどのように貢献したでしょうか?先に紹介した通勤路「朝永ノーベルロード」は田園の道だったはずです。大井川の夕焼けとその後に空を染める群青色も朝永博士の目に映ったはずです。
〉
もちろん、80%も概算でしかなく、発案は諏訪や御影、あるいは、京都への列車の中での出来事だった可能性も十分にあります。前後の東京在住時だった可能性もゼロではありません。が、島田を愛する一市民としての願望は、大井川の薫風を浴びながら歩いておられた朝永博士が繰り込み理論の切掛けを得たものと信じたいところです。
〉
逆に、島田の人々を含む環境は高度な科学技術を研究・開発するために十二分な資質を有すると結論してもよいと考えます。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉

〉
一般に、優れた研究成果が輩出された際、その研究を実施した個人およびグループは、当然、賞賛されます。と同時に、その研究が実施されるための環境を整えた人々も称賛されます。
〉
実験による研究では、多くの場合に、実験装置の整備が必要で、そのための費用が必要です。ノーベル賞の対象になるような「他の誰もがやっていない」という新規性、すなわちリスクの極めて高い研究の場合、周囲の理解が浅いと装置整備の費用を得ることができません。「投資は無駄、ものにならないかもしれない」という危険性が高い野心的研究に対しては上司や周囲の理解が必要です。これらの人々の勇気と判断力も称賛されるべきという考え方です。
〉
それでは、理論研究はどうでしょうか?朝永博士の繰り込み理論の研究はまさにこの理論研究でした。「理論研究は紙と鉛筆があればできる」とよく言われます、朝永博士は加えて計算尺を用いておられたようですが、装置整備の費用はほとんど不必要そうです。むしろ、周囲にどのような人々がいるかを含む環境が肝要ではないでしょうか?朝永博士は中間子研究会や物理学会で湯川博士とよく議論を交わされたようです。また、ドイツ留学中も日本の湯川博士のことが念頭にあった旨、書物に記しておられます。中学、高校、大学、無給助手時代、これらのそれぞれで机を並べた湯川博士の存在はもちろん、ハイゼンベルク博士との交流や仁科芳雄博士の下での理化学研究所生活も朝永博士の環境の一つだったといえるでしょう。
〉
肝心の1945年、朝永博士にとっては空襲に追われる日々からの解放は「研究環境」という意味で大きかったのではないかと考えられます。また、京都の自然に親しむ少年時代を送られた朝永博士は、生物学者も選択肢とされたほど自然がお好きだったようです。『回想の朝永振一郎』(みすず書房)の表紙は朝永博士の描かれた荻窪1丁目の田園風景です(荻窪には一時住んでおられたようです)。また、さらなる郊外の武蔵野市の境南町に住まわれた際も「堆肥のにおいからふるさとを思い出した」と残しておられます。大学のあった都心ではなく、郊外に住居を求められた朝永博士の嗜好がなんとなく分かります。
〉
そのような朝永博士に1945年の島田の環境はどのように貢献したでしょうか?先に紹介した通勤路「朝永ノーベルロード」は田園の道だったはずです。大井川の夕焼けとその後に空を染める群青色も朝永博士の目に映ったはずです。
〉
もちろん、80%も概算でしかなく、発案は諏訪や御影、あるいは、京都への列車の中での出来事だった可能性も十分にあります。前後の東京在住時だった可能性もゼロではありません。が、島田を愛する一市民としての願望は、大井川の薫風を浴びながら歩いておられた朝永博士が繰り込み理論の切掛けを得たものと信じたいところです。
〉
逆に、島田の人々を含む環境は高度な科学技術を研究・開発するために十二分な資質を有すると結論してもよいと考えます。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉
↓ 回想の朝永振一郎』(みすず書房)。こちらから転載させて頂きました。

2025年03月17日
朝永振一郎博士と島田市 018 ノーベル賞研究の発案場所は島田が有力
愚問会メンバーだった早川幸男氏は1944年から1949年までの間に使用したノートを数冊保存存されていて、そこには種々のミーティングでの発言や参考にした論文が記されているとのことです。これを早川ノートと呼ぶことにします。早川氏は自らのノートに基づいた文章を1991年に寄稿されておられます。
〉
その中には、戦時中の愚問会メンバーと朝永博士とのやり取りが記されています。が、本論で発案の素と定義したC論文(ダンコフ博士)あるいはD論文(坂田昌一博士)を案内する朝永博士は登場していません。これは何を意味するでしょうか?推理に飛躍が生ずるかもしれませんが、1945年3月の時点では、繰り込み理論の発案と考えるべき「C論文とD論文の融合」が朝永博士の脳中に無かったことの証左とも考えられます。朝永博士の研究指導スタイルでは「口に出されるときには方針が固まっていて内容が的確」という指摘がありますので、この推定にも分があると思われます。
〉
さらに、早川ノートの1945年9月3日付のページが紹介されています。早川氏、木庭氏、宮本氏が東京大学を卒業した(終戦直後の混乱の中、さすがに卒業式は開催されなかったようですが、、)タイミングで朝永博士と面談したようです。愚問会メンバーに対して、お祝い(もしかすると労い?)の言葉と共に朝永博士はその後の研究方向性を暗示する話をされ、数式まで示されたとのことです。
〉
その内容に対して早川氏は以下のような感想を記しておられます。「This comment implies an idea he asked us to develop, although I was not clever enough to understand his intention.」意訳すると「(朝永博士の)このコメントは私たちが進むべき方向性を暗示していたが、彼(朝永博士)の意図を理解できるほど私は賢くなかった。」となるでしょうか?
〉
名古屋大学の学長にまでなった早川氏が理解できなかったのですから、浅学菲才の私などに早川ノートのその内容が解釈できるわけがありません。が、どうやら二つの電子が存在したときにそれぞれが発生する電界の影響の取り扱い方法を論じていることは分かります。そして、さらにどうやらですが、超多時間理論とは別の内容のようです。
〉
島田市を愛する私が、やや無理のある推論に牽強付会をご容赦頂くとすれば、朝永博士が繰り込み理論の発案に達した可能性のある期間を1945年4月初めから同年9月3日とさせて頂きたいと考えます。であれば、朝永博士が島田単身赴任中に繰り込み理論の発案に至った可能性は時間の割合として約8割となります。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉

〉
その中には、戦時中の愚問会メンバーと朝永博士とのやり取りが記されています。が、本論で発案の素と定義したC論文(ダンコフ博士)あるいはD論文(坂田昌一博士)を案内する朝永博士は登場していません。これは何を意味するでしょうか?推理に飛躍が生ずるかもしれませんが、1945年3月の時点では、繰り込み理論の発案と考えるべき「C論文とD論文の融合」が朝永博士の脳中に無かったことの証左とも考えられます。朝永博士の研究指導スタイルでは「口に出されるときには方針が固まっていて内容が的確」という指摘がありますので、この推定にも分があると思われます。
〉
さらに、早川ノートの1945年9月3日付のページが紹介されています。早川氏、木庭氏、宮本氏が東京大学を卒業した(終戦直後の混乱の中、さすがに卒業式は開催されなかったようですが、、)タイミングで朝永博士と面談したようです。愚問会メンバーに対して、お祝い(もしかすると労い?)の言葉と共に朝永博士はその後の研究方向性を暗示する話をされ、数式まで示されたとのことです。
〉
その内容に対して早川氏は以下のような感想を記しておられます。「This comment implies an idea he asked us to develop, although I was not clever enough to understand his intention.」意訳すると「(朝永博士の)このコメントは私たちが進むべき方向性を暗示していたが、彼(朝永博士)の意図を理解できるほど私は賢くなかった。」となるでしょうか?
〉
名古屋大学の学長にまでなった早川氏が理解できなかったのですから、浅学菲才の私などに早川ノートのその内容が解釈できるわけがありません。が、どうやら二つの電子が存在したときにそれぞれが発生する電界の影響の取り扱い方法を論じていることは分かります。そして、さらにどうやらですが、超多時間理論とは別の内容のようです。
〉
島田市を愛する私が、やや無理のある推論に牽強付会をご容赦頂くとすれば、朝永博士が繰り込み理論の発案に達した可能性のある期間を1945年4月初めから同年9月3日とさせて頂きたいと考えます。であれば、朝永博士が島田単身赴任中に繰り込み理論の発案に至った可能性は時間の割合として約8割となります。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉
↓ 赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。

2025年03月16日
朝永振一郎博士と島田市 017 いよいよクライマックス?
先の論考では、アイディア『C論文+D論文』を得たのが繰り込み理論の発案のタイミングであり、「D論文の内容を把握した1943年秋」から「1947年11月のしばらく前(半年前程度?)の若手に計算の指示を出した時期」の間のどこかであろうと推定しました。そしてその期間には、朝永博士の島田単身赴任期間(1945年4月後半~8月中旬)が含まれることも強調しました。ここでは、宮本米二氏の回顧録を基に、発案のタイミングの推定期間を狭めてみます。
〉
まずは、終戦後の朝永博士と愚問会メンバーの動向をざっくりとまとめてみましょう。朝永博士は1945年8月16日、小谷博士と共に列車で東京に戻っておられます。東京では、被災を免れた岳父の関口鯉吉博士の官舎(三鷹)に身を寄せたようです。関口博士はこの時点で東京天文台の台長でした。同年8月下旬から9月上旬にかけて福田博氏を除く愚問会メンバーの3人が東京大学を卒業しました。そこで、朝永博士は愚問会メンバーと言葉を交わしたようです。これが「輪講のおまけの一回」だったようです。
〉
この後、「GHQが原子核研究を禁ずるかもしれない」との噂が流れたようで、朝永博士も珍しく「専門分野を生物学に変えようか、、、」と嘆かれたとのこと。同年秋には愚問会メンバー3人(木庭氏、早川氏、宮本氏)が独自のゼミ活動を再開します(空腹に耐えながら、だったそうです)。同年11月にGHQが理化学研究所のサイクロトロン装置を破壊するも、同年12月には研究禁止が緩和されました。そして翌1946年の4月には東京文理科大学大久保キャンパスの一室に朝永グループが再結集し、朝永博士が若手に指示を出しました。
〉
その朝永博士の指示は、早川幸男氏の回顧によると「超多時間理論の具体的問題への応用」であり、宮本米二氏によるとそれに加えて「多次元理論における縦波の消去を相対論的に行う方法の模索」も含まれていたようです。宮本氏は「繰り込みの考えの芽生えがそこに」と回顧されています。これによれば、朝永博士の念頭には1946年4月の時点で「繰り込み理論の芽生え」なるものが存在したことになります。
〉
繰り込み理論発案のタイミングの可能性のある期間がさらに狭まってきました。すなわち、1943年秋から1946年4月までの2年半です。この中には朝永博士の島田単身赴任の4か月が含まれます。
〉
繰り込み理論の発案と島田市との地縁は先の9%から13%に可能性が上がりました。さらに、、、。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉


〉
まずは、終戦後の朝永博士と愚問会メンバーの動向をざっくりとまとめてみましょう。朝永博士は1945年8月16日、小谷博士と共に列車で東京に戻っておられます。東京では、被災を免れた岳父の関口鯉吉博士の官舎(三鷹)に身を寄せたようです。関口博士はこの時点で東京天文台の台長でした。同年8月下旬から9月上旬にかけて福田博氏を除く愚問会メンバーの3人が東京大学を卒業しました。そこで、朝永博士は愚問会メンバーと言葉を交わしたようです。これが「輪講のおまけの一回」だったようです。
〉
この後、「GHQが原子核研究を禁ずるかもしれない」との噂が流れたようで、朝永博士も珍しく「専門分野を生物学に変えようか、、、」と嘆かれたとのこと。同年秋には愚問会メンバー3人(木庭氏、早川氏、宮本氏)が独自のゼミ活動を再開します(空腹に耐えながら、だったそうです)。同年11月にGHQが理化学研究所のサイクロトロン装置を破壊するも、同年12月には研究禁止が緩和されました。そして翌1946年の4月には東京文理科大学大久保キャンパスの一室に朝永グループが再結集し、朝永博士が若手に指示を出しました。
〉
その朝永博士の指示は、早川幸男氏の回顧によると「超多時間理論の具体的問題への応用」であり、宮本米二氏によるとそれに加えて「多次元理論における縦波の消去を相対論的に行う方法の模索」も含まれていたようです。宮本氏は「繰り込みの考えの芽生えがそこに」と回顧されています。これによれば、朝永博士の念頭には1946年4月の時点で「繰り込み理論の芽生え」なるものが存在したことになります。
〉
繰り込み理論発案のタイミングの可能性のある期間がさらに狭まってきました。すなわち、1943年秋から1946年4月までの2年半です。この中には朝永博士の島田単身赴任の4か月が含まれます。
〉
繰り込み理論の発案と島田市との地縁は先の9%から13%に可能性が上がりました。さらに、、、。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉
↓ 1945年秋の東京。9月21日撮影の写真。配給に並ぶ人々。こちらから転載させて頂きました。

↓ 赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。

2025年03月15日
朝永振一郎博士と島田市 016 片腕の木庭氏と諏訪で会っていた?
少しわき道にそれるかもしれませんが、もしかすると、重要な要素になる可能性もありますので、標題について考察してみます。
〉
1945年4月以降、朝永博士は島田で単身赴任生活を送っておられました。他方、木庭二郎氏は東京大学物理学科と共に諏訪に疎開されていました。終戦までの期間、両者が会う機会はあったのでしょうか?ノーベル賞受賞者の南部陽一郎博士は「朝永は木庭を片腕として最も重要な問題に取組んだ」と回顧されていますので、この点は一考の価値があると思われます。南部博士は戦後のある時期に東京大学の一室で木庭氏と机を並べていたとのことで、極めて信頼性の高い回顧です。
〉
書籍「回想の朝永振一郎(松井巻之助編、みすず書房)」には次のような一節があります。「戦争末期、ゲートルと運動靴といういでたちで、大きなリュックを背負った先生(朝永博士)が、突然、御影の叔母の家に現れた。」リュックの中身は、朝永博士の叔母様がお好きだった寒天だったそうです。叔母様によると、残念ながら、その寒天は御影の空襲で食べる前に焼失してしまったとのこと。こちらによれば、御影空襲は1945年8月5~6日だったようです。朝永博士の御影訪問はこれ以前だったと考えられます。
〉
さて、寒天と言えば諏訪盆地の名物です。その諏訪には木庭二郎氏が疎開していました。
〉
証拠はこれだけです。ですが、島田研究所で同僚だった小谷正雄博士の本籍は東京大学理学部であり、その時期は疎開先の諏訪にありました。小谷博士は学生の指導に比較的頻繁に諏訪を訪れていたようです。従って、朝永博士が小谷博士とともにそこに訪れた可能性はゼロではないでしょう。そこで木庭二郎氏と何らかのコンタクトがあっても不思議ではありません。木庭氏は、先述のように、繰り込み理論の仕上げ時期に主力として活躍された方です。
〉
もしも両者が会っていたとしたら、どんな議論を交わしていたのでしょうか?
〉
さらに、、、。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉

〉
1945年4月以降、朝永博士は島田で単身赴任生活を送っておられました。他方、木庭二郎氏は東京大学物理学科と共に諏訪に疎開されていました。終戦までの期間、両者が会う機会はあったのでしょうか?ノーベル賞受賞者の南部陽一郎博士は「朝永は木庭を片腕として最も重要な問題に取組んだ」と回顧されていますので、この点は一考の価値があると思われます。南部博士は戦後のある時期に東京大学の一室で木庭氏と机を並べていたとのことで、極めて信頼性の高い回顧です。
〉
書籍「回想の朝永振一郎(松井巻之助編、みすず書房)」には次のような一節があります。「戦争末期、ゲートルと運動靴といういでたちで、大きなリュックを背負った先生(朝永博士)が、突然、御影の叔母の家に現れた。」リュックの中身は、朝永博士の叔母様がお好きだった寒天だったそうです。叔母様によると、残念ながら、その寒天は御影の空襲で食べる前に焼失してしまったとのこと。こちらによれば、御影空襲は1945年8月5~6日だったようです。朝永博士の御影訪問はこれ以前だったと考えられます。
〉
さて、寒天と言えば諏訪盆地の名物です。その諏訪には木庭二郎氏が疎開していました。
〉
証拠はこれだけです。ですが、島田研究所で同僚だった小谷正雄博士の本籍は東京大学理学部であり、その時期は疎開先の諏訪にありました。小谷博士は学生の指導に比較的頻繁に諏訪を訪れていたようです。従って、朝永博士が小谷博士とともにそこに訪れた可能性はゼロではないでしょう。そこで木庭二郎氏と何らかのコンタクトがあっても不思議ではありません。木庭氏は、先述のように、繰り込み理論の仕上げ時期に主力として活躍された方です。
〉
もしも両者が会っていたとしたら、どんな議論を交わしていたのでしょうか?
〉
さらに、、、。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉
↓ 諏訪の名物の寒天。こちらから転載させて頂きました。

2025年03月14日
朝永振一郎博士と島田市 015 参考文献の入手時期
ここでの結論は「坂田昌一博士の論文の内容を朝永博士は島田単身赴任の前に知っていた」となります。まずは、朝永博士のノーベル賞受賞講演にある思考の流れを復習します。
〉
「関連する思考をドイツ留学中に開始し、A論文、B論文、C論文、D論文を選択して参考にしつつそのとりまとめとなるアイディア『C論文+D論文』を得た。若手の協力を得て計算を進めたところ、C論文の足りないところを発見し、それを補完することによって繰り込み理論の完成に至った。」
〉
以下では、参考文献のそれぞれについて、朝永博士が内容を把握した時期を推定してみます。
〉
A論文はドイツ留学中にハイゼンベルク博士から直接ゲラ刷りを得ています。B論文もドイツ留学中に入手したと思われます。著者のパウリ博士はハイゼンベルク博士と同じボルン博士門下であり、情報交換は頻繁だったと思われます。
〉
C論文は米国専門誌上の掲載でした。1939年5月のことで時期的に際どいのですが、同年9月のドイツのポーランド侵攻よりも前でした。これもドイツ留学中の朝永博士にとっては入手可能な論文だったと考えられます。
〉
そして、坂田昌一博士のD論文です。1946年秋に日本の英文専門誌Progress of Theoretical Physicsに掲載されました。ですが、その第一頁のフッターに以下のような興味深い説明文があります。
〉
The content of this paper was read before the symposium of the meson theory held on September, 1943. The printing was, however, delayed owing to the war circumstances. (この論文の内容は1943年9月開催の中間子研究会の前に読まれている。印刷は、しかしながら、戦時中のために遅れた。)
〉
湯川博士が残されたメモによると、1943年9月26日(日)に理化学研究所講堂開催の中間子討論会があり、その午後に坂田昌一博士が登壇されています。その論題は「素粒子論における模型の問題」でした。さらに、この湯川メモが紹介された物理学会誌の湯川博士追悼文(河辺六男・小沼通二共著)には「1943年9月の会だけは、講演者があらかじめくわしい原稿を作り、それを事前にプリントして全国の研究者に配るという形で準備が進められ」とあります。
〉
そして、翌日の9月27日(月)の午後、今度は朝永博士が登壇されています。朝永博士は間違いなくこの段階で坂田昌一博士のD論文の内容を把握されていたと考えられます。
〉
以上により明らかになることは、朝永博士は島田単身赴任期間の「前」に「C論文とD論文の双方の内容を把握していた」ということです。つまり、先に述べた「繰り込み理論の発案のタイミング」の可能性のある期間のスタートが1946年秋ではなく、その3年前の1943年秋ということになります。
〉
島田市との地縁の可能性が0%から9%になってきました。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉


〉
「関連する思考をドイツ留学中に開始し、A論文、B論文、C論文、D論文を選択して参考にしつつそのとりまとめとなるアイディア『C論文+D論文』を得た。若手の協力を得て計算を進めたところ、C論文の足りないところを発見し、それを補完することによって繰り込み理論の完成に至った。」
〉
以下では、参考文献のそれぞれについて、朝永博士が内容を把握した時期を推定してみます。
〉
A論文はドイツ留学中にハイゼンベルク博士から直接ゲラ刷りを得ています。B論文もドイツ留学中に入手したと思われます。著者のパウリ博士はハイゼンベルク博士と同じボルン博士門下であり、情報交換は頻繁だったと思われます。
〉
C論文は米国専門誌上の掲載でした。1939年5月のことで時期的に際どいのですが、同年9月のドイツのポーランド侵攻よりも前でした。これもドイツ留学中の朝永博士にとっては入手可能な論文だったと考えられます。
〉
そして、坂田昌一博士のD論文です。1946年秋に日本の英文専門誌Progress of Theoretical Physicsに掲載されました。ですが、その第一頁のフッターに以下のような興味深い説明文があります。
〉
The content of this paper was read before the symposium of the meson theory held on September, 1943. The printing was, however, delayed owing to the war circumstances. (この論文の内容は1943年9月開催の中間子研究会の前に読まれている。印刷は、しかしながら、戦時中のために遅れた。)
〉
湯川博士が残されたメモによると、1943年9月26日(日)に理化学研究所講堂開催の中間子討論会があり、その午後に坂田昌一博士が登壇されています。その論題は「素粒子論における模型の問題」でした。さらに、この湯川メモが紹介された物理学会誌の湯川博士追悼文(河辺六男・小沼通二共著)には「1943年9月の会だけは、講演者があらかじめくわしい原稿を作り、それを事前にプリントして全国の研究者に配るという形で準備が進められ」とあります。
〉
そして、翌日の9月27日(月)の午後、今度は朝永博士が登壇されています。朝永博士は間違いなくこの段階で坂田昌一博士のD論文の内容を把握されていたと考えられます。
〉
以上により明らかになることは、朝永博士は島田単身赴任期間の「前」に「C論文とD論文の双方の内容を把握していた」ということです。つまり、先に述べた「繰り込み理論の発案のタイミング」の可能性のある期間のスタートが1946年秋ではなく、その3年前の1943年秋ということになります。
〉
島田市との地縁の可能性が0%から9%になってきました。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉
↓ 坂田昌一博士。こちらから転載させて頂きました。

↓ 赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。

2025年03月13日
朝永振一郎博士と島田市 014 繰り込み理論の参考文献
さて、朝永博士のノーベル賞受賞講演に戻ります。朝永博士は、繰り込み理論の完成に至るまでの思考上の経緯を講演の中で説明されています。また、その中で参考にした重要な文献を挙げておられます。それらを以下に示します。
〉
まず、1937年から1939年までのドイツ留学が発端だったと述べておられます。留学先のハイゼンベルク博士との「場の反作用」の議論がそれだったようです。ハイゼンベルク博士はすでに論文化の準備を進めていて、その出版前のゲラ刷りを朝永博士は直接手渡しされたようです。これを、便宜上、A論文と書くことにします。論文誌掲載は1939年1月です。
〉
次に、パウリ博士とフィエツ博士の1938年の論文に触れておられます。これをB論文と書くことにします。この論文は、以前に紹介したように、朝永博士が愚問会メンバーに対して1944年冬に示しています。
〉
その次はダンコフ博士(Sidney Michael Dancoff)の論文です。1939年5月に米国専門誌に掲載されました。これをC論文と書くことにします。
〉
最後は坂田昌一博士の英語論文で1946年の秋にProgress of Theoretical Physics誌に掲載されています。これをD論文と書くことにします。
〉
朝永博士は受賞講演の中で「D論文をヒントとしてC論文の手法の改変を発案し、若者たちに具体的な計算を委託」と述べておられます。そして、朝永グループの様々な回顧録によると、1947年11月、C論文の間違いを発見し、その修正を通じて繰り込み理論の「完成」を見ることになったということです。
〉
以上から言えることは、朝永博士が繰り込み理論の完成に至る思考経緯は次のようなものであったのではないかということです。
〉
「関連する思考をドイツ留学中に開始し、A論文、B論文、C論文、D論文を選択し、それらを参考にしつつそのとりまとめとなるアイディア『C論文+D論文』を得た。若手の協力を得て検証のための計算を進めたところ、C論文の足りないところを発見し、それを補完することによって繰り込み理論の完成に至った。」
〉
この経緯推論が正しければ、アイディア『C論文+D論文』を得たタイミングが繰り込み理論の発案のタイミングということになります。
〉
そのタイミングは「D論文掲載の1946年秋」から「C論文の欠陥を見出した1947年11月のしばらく前の若手に計算の指示を出した時期」の間のどこか、ということになります。
〉
これには朝永博士の島田単身赴任期間は含まれません。島田市民としては誠に残念なことに、繰り込み理論発案との地縁は島田に無かったということになります。0%です。
〉
ところが、、、。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉


〉
まず、1937年から1939年までのドイツ留学が発端だったと述べておられます。留学先のハイゼンベルク博士との「場の反作用」の議論がそれだったようです。ハイゼンベルク博士はすでに論文化の準備を進めていて、その出版前のゲラ刷りを朝永博士は直接手渡しされたようです。これを、便宜上、A論文と書くことにします。論文誌掲載は1939年1月です。
〉
次に、パウリ博士とフィエツ博士の1938年の論文に触れておられます。これをB論文と書くことにします。この論文は、以前に紹介したように、朝永博士が愚問会メンバーに対して1944年冬に示しています。
〉
その次はダンコフ博士(Sidney Michael Dancoff)の論文です。1939年5月に米国専門誌に掲載されました。これをC論文と書くことにします。
〉
最後は坂田昌一博士の英語論文で1946年の秋にProgress of Theoretical Physics誌に掲載されています。これをD論文と書くことにします。
〉
朝永博士は受賞講演の中で「D論文をヒントとしてC論文の手法の改変を発案し、若者たちに具体的な計算を委託」と述べておられます。そして、朝永グループの様々な回顧録によると、1947年11月、C論文の間違いを発見し、その修正を通じて繰り込み理論の「完成」を見ることになったということです。
〉
以上から言えることは、朝永博士が繰り込み理論の完成に至る思考経緯は次のようなものであったのではないかということです。
〉
「関連する思考をドイツ留学中に開始し、A論文、B論文、C論文、D論文を選択し、それらを参考にしつつそのとりまとめとなるアイディア『C論文+D論文』を得た。若手の協力を得て検証のための計算を進めたところ、C論文の足りないところを発見し、それを補完することによって繰り込み理論の完成に至った。」
〉
この経緯推論が正しければ、アイディア『C論文+D論文』を得たタイミングが繰り込み理論の発案のタイミングということになります。
〉
そのタイミングは「D論文掲載の1946年秋」から「C論文の欠陥を見出した1947年11月のしばらく前の若手に計算の指示を出した時期」の間のどこか、ということになります。
〉
これには朝永博士の島田単身赴任期間は含まれません。島田市民としては誠に残念なことに、繰り込み理論発案との地縁は島田に無かったということになります。0%です。
〉
ところが、、、。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉
↓ ダンコフ博士。こちらから転載させて頂きました。

↓ 赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。

2025年03月12日
朝永振一郎博士と島田市 013 ONJとの関係は?
今回の閑話をご容赦ください。全くの戯けた話です。ですが、私は個人的にこれが気に入っています。先を急ぎたい方はこちらへどうぞ。
〉
ONJとは歌手で俳優のオリビア・ニュートン‐ジョン(Olivia Newton-John)さんのことです。1948年生まれで、2022年に惜しくも亡くなりました。私の世代では「そよ風の誘惑」というとんでもない邦訳がついてしまった”Have You Never Been Mellow”という歌に馴染んだ方も多いと思われます。そのほかにも世界的ヒット作や著名な映画への出演が多々あります。
〉
ONJはオーストラリア出身と私は思い込んでいたのですが、生れは英国ケンブリッジでした。父親のオーストラリアでの就職によって幼い頃に移住したようです。初期のレコーディングもロンドンでした。
〉
父親はMI5(イギリスの国内治安維持を担当する情報機関)の職員で英国ブレッチェリー(Bletchley Park)におけるエニグマ(Enigma)プロジェクトに関与していたとのこと。エニグマプロジェクトは第二次世界大戦中の英国の政府暗号学校で実施され、コンピュータ科学の父と言われるチューリング博士(Alan Mathison Turing)が主役だった暗号解読機開発プロジェクトでした。詳しいことは2014年の映画「イミテーション・ゲーム(The Imitation Game)」にありますので、興味のある方はそちらをご覧ください。
〉
ONJの母親は自身の父親とともにナチスから逃れてきたドイツ系ユダヤ人です。その父親、すなわちONJの母方の祖父はドイツ系ユダヤ人研究者のボルン(Max Born)博士でした。彼は1954年にノーベル物理学賞を受賞しています。ボルン博士は英国ケンブリッジ大学で職を得ますが、ナチスに追われる前はドイツのゲッチンゲン大学(University of Göttingen)の教授でした。
〉
ゲッチンゲン大学時代の弟子(助手)には後のノーベル賞受賞者となる人物が何人かいました(指導した学生の中からも二人のノーベル賞受賞者が輩出されています)。その中にはフェルミ博士(Enrico Fermi)、ハーツベルク博士(Gerhard Herzberg)、パウリ博士(Wolfgang Pauli)、ローゼンフェルト博士(Léon Rosenfeld)、ウィグナー博士(Eugene Wigner)などと共にハイゼンベルク博士(Werner Heisenberg)が含まれています。すごいですね。
〉
ここでお気づきの方もいらっしゃるかと。朝永博士はライプツィヒ大学留学時にハイゼンベルク博士の下で研究活動を進めていました。すなわち、ハイゼンベルク博士の弟子です。ハイゼンベルク博士はボルン博士の弟子ですから、朝永博士はボルン博士の孫弟子ということになります。
〉
ボルン博士から見ると、ONJは孫娘であり、朝永博士は孫弟子です。であれば、二人はいとこ同士の関係と強弁できなくもないということになります。
〉
なお、ボルン博士のお弟子さんはたくさんおられますし、有名な方ばかりなので、そのまたお弟子さんもたくさんおられると思われます。結果、ONJはとんでもない数の「いとこ」を持っていたことになります(笑)。
〉
まことにお粗末様でした。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉


〉
ONJとは歌手で俳優のオリビア・ニュートン‐ジョン(Olivia Newton-John)さんのことです。1948年生まれで、2022年に惜しくも亡くなりました。私の世代では「そよ風の誘惑」というとんでもない邦訳がついてしまった”Have You Never Been Mellow”という歌に馴染んだ方も多いと思われます。そのほかにも世界的ヒット作や著名な映画への出演が多々あります。
〉
ONJはオーストラリア出身と私は思い込んでいたのですが、生れは英国ケンブリッジでした。父親のオーストラリアでの就職によって幼い頃に移住したようです。初期のレコーディングもロンドンでした。
〉
父親はMI5(イギリスの国内治安維持を担当する情報機関)の職員で英国ブレッチェリー(Bletchley Park)におけるエニグマ(Enigma)プロジェクトに関与していたとのこと。エニグマプロジェクトは第二次世界大戦中の英国の政府暗号学校で実施され、コンピュータ科学の父と言われるチューリング博士(Alan Mathison Turing)が主役だった暗号解読機開発プロジェクトでした。詳しいことは2014年の映画「イミテーション・ゲーム(The Imitation Game)」にありますので、興味のある方はそちらをご覧ください。
〉
ONJの母親は自身の父親とともにナチスから逃れてきたドイツ系ユダヤ人です。その父親、すなわちONJの母方の祖父はドイツ系ユダヤ人研究者のボルン(Max Born)博士でした。彼は1954年にノーベル物理学賞を受賞しています。ボルン博士は英国ケンブリッジ大学で職を得ますが、ナチスに追われる前はドイツのゲッチンゲン大学(University of Göttingen)の教授でした。
〉
ゲッチンゲン大学時代の弟子(助手)には後のノーベル賞受賞者となる人物が何人かいました(指導した学生の中からも二人のノーベル賞受賞者が輩出されています)。その中にはフェルミ博士(Enrico Fermi)、ハーツベルク博士(Gerhard Herzberg)、パウリ博士(Wolfgang Pauli)、ローゼンフェルト博士(Léon Rosenfeld)、ウィグナー博士(Eugene Wigner)などと共にハイゼンベルク博士(Werner Heisenberg)が含まれています。すごいですね。
〉
ここでお気づきの方もいらっしゃるかと。朝永博士はライプツィヒ大学留学時にハイゼンベルク博士の下で研究活動を進めていました。すなわち、ハイゼンベルク博士の弟子です。ハイゼンベルク博士はボルン博士の弟子ですから、朝永博士はボルン博士の孫弟子ということになります。
〉
ボルン博士から見ると、ONJは孫娘であり、朝永博士は孫弟子です。であれば、二人はいとこ同士の関係と強弁できなくもないということになります。
〉
なお、ボルン博士のお弟子さんはたくさんおられますし、有名な方ばかりなので、そのまたお弟子さんもたくさんおられると思われます。結果、ONJはとんでもない数の「いとこ」を持っていたことになります(笑)。
〉
まことにお粗末様でした。
〉
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
〉
↓ オリビアニュートンジョン。こちらから転載させて頂きました。

↓ Enigmaプロジェクトが実行されたBletchley Park。こちらから転載させて頂きました。

2025年03月11日
朝永振一郎博士と島田市 012 チームメンバーの回顧録
前回、朝永博士が朝永チームを構成した経緯について述べました。その中で、比較的多くの回顧文章を残しておられるのが東大生の愚問会の面々と伊藤大介氏です。
然るに、その回顧文章の多くは朝永博士が亡くなられた1979年以降の執筆です。終戦から34年が経っているので、その方々の若い頃の記憶とはいえ、勘違いが含まれているかもしれません。注意深く推論する必要があります。
伊藤大介氏については、戦後の朝永博士との交流を詳細に記述されていて貴重な資料を提供して下さっています。が、残念ながら、1943年4月に陸軍に召集されているため、朝永博士の島田単身赴任(1945年4~8月)の前後についてはご存じなかったようです。復員後に朝永グループに戻られた後のことが回想の主体となっています。
福田博氏は四名の中では早期の召集を受け、復員も1946年にずれ込んだためか、回想の文章があまり多くありません。
宮本米二氏も愚問会の最後の時期(1945年春)に自宅の焼失や召集があったためか、回想は主として復員後のものです。
木庭二郎氏は戦後の朝永グループの主力として活躍された方で、繰り込み理論の完成に対する貢献はとても大きなものがありました。実際、繰り込み理論を発表した論文では木庭氏が筆頭著者です。京都大学教授となった後にコペンハーゲン大学客員教授に就任されました。が、様々な意味で残念なことに、コペンハーゲンにおいて客死されてしまいました。これが朝永博士逝去の前だったので、朝永博士回顧の書籍や専門誌などには全く登場されていません。日記を残されていれば、本論の推理の正否が明らかになると思われますが、見つかっていないようです。
最後に、早川幸男氏です。早川氏は愚問会の戦中の最終盤まで参加されていた上に、終戦後の帰京も早かったようです。また、戦後、朝永博士の研究の主流から離れた分野に専門を移されたこともあってか、早川氏の回顧は愚問会のことと、朝永博士の島田単身赴任の前後のことが比較的多いようです。
後述するように、本論の推論において早川氏の回顧はとても重要な位置を占めます。
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

然るに、その回顧文章の多くは朝永博士が亡くなられた1979年以降の執筆です。終戦から34年が経っているので、その方々の若い頃の記憶とはいえ、勘違いが含まれているかもしれません。注意深く推論する必要があります。
伊藤大介氏については、戦後の朝永博士との交流を詳細に記述されていて貴重な資料を提供して下さっています。が、残念ながら、1943年4月に陸軍に召集されているため、朝永博士の島田単身赴任(1945年4~8月)の前後についてはご存じなかったようです。復員後に朝永グループに戻られた後のことが回想の主体となっています。
福田博氏は四名の中では早期の召集を受け、復員も1946年にずれ込んだためか、回想の文章があまり多くありません。
宮本米二氏も愚問会の最後の時期(1945年春)に自宅の焼失や召集があったためか、回想は主として復員後のものです。
木庭二郎氏は戦後の朝永グループの主力として活躍された方で、繰り込み理論の完成に対する貢献はとても大きなものがありました。実際、繰り込み理論を発表した論文では木庭氏が筆頭著者です。京都大学教授となった後にコペンハーゲン大学客員教授に就任されました。が、様々な意味で残念なことに、コペンハーゲンにおいて客死されてしまいました。これが朝永博士逝去の前だったので、朝永博士回顧の書籍や専門誌などには全く登場されていません。日記を残されていれば、本論の推理の正否が明らかになると思われますが、見つかっていないようです。
最後に、早川幸男氏です。早川氏は愚問会の戦中の最終盤まで参加されていた上に、終戦後の帰京も早かったようです。また、戦後、朝永博士の研究の主流から離れた分野に専門を移されたこともあってか、早川氏の回顧は愚問会のことと、朝永博士の島田単身赴任の前後のことが比較的多いようです。
後述するように、本論の推論において早川氏の回顧はとても重要な位置を占めます。
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
↓ 若い頃の朝永博士。こちらから転載させて頂きました。

2025年03月10日
朝永振一郎博士と島田市 011 東大生による愚問会の発足と散会
1944年初夏、朝永振一郎博士の下に集った東京大学物理学科の学生4名(木庭二郎氏、早川幸男氏、福田博氏、宮本米二氏)は、朝永博士の講義について「期待外れ」という印象を抱いたようです。
というのは、量子力学の先駆的研究によりすでに国内では有名だった朝永博士の講義でありながら、基本的な内容に終始したためです。旧制とはいえ大学2年生が朝永博士の講義に失望するとは、ある意味ですごいことと思われます。当時の量子力学の最先端を講義内容に期待していた反動としての失望だったようです。
ただ、これが正しい情報かどうかわからないのですが、講義は隔週の「日曜日」に計5回行われたとのことです。朝永博士は、東京文理科大学の講義や業務との掛け持ちだったので、東京大学には日曜日しか行けなかったのかもしれません。また、学生も勤労動員のために、日曜日しか時間が無かったようです。輪講形式の授業も合計4回(1945年8月におまけの1回があったそうですが、、)でした。
しかしながら、講義以外の場面で朝永博士の指導に傾倒していた上記4名は1944年11月に「愚問会」を結成します。これは、朝永博士不在の講師室に集まった4名が、空襲にもめげずに勉強会を開催し、互いに疑問を投げかけた会合だったようです。
朝永博士もこの頃になると先進的文献を東大生に推奨するようになっていたようで、1938年イタリア誌掲載のパウリ博士(Wolfgang Ernst Pauli)とフィエツ博士(Markus Eduard Fierz)による論文(二人ともスイス人で文章はドイツ語)に当たったと早川幸男氏は回顧されています。
この愚問会も、冬季通例の朝永博士の体調不良や米軍による空襲の激化、焼け出し、などで1945年3月には一旦の散会となったようです。福田博氏は愚問会発足直後の1944年12月に、宮本米二氏は1945年4月に、それぞれ召集され、所属は軍隊となりました。病気がちだった木庭二郎氏は1945年3月の東京大空襲で自宅が消失、物理学科の疎開先だった長野県の諏訪に移動しました。早川幸男氏は、この頃、中央気象台(気象庁の前身)宇宙線研究室(当初の所在地は不明ですが、1945年5月に空襲で被災すると同年7月に長野県小諸に疎開したようです)での勤務となりました。
それでも、1945年3月ころまでは、病室の朝永博士を訪ねて有益な助言を得るなど、愚問会の活動はとても熱心なものだったようです。
なお、戦後に愚問会は再開され、後には最先端研究者の交流の場となったとのことです。
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

というのは、量子力学の先駆的研究によりすでに国内では有名だった朝永博士の講義でありながら、基本的な内容に終始したためです。旧制とはいえ大学2年生が朝永博士の講義に失望するとは、ある意味ですごいことと思われます。当時の量子力学の最先端を講義内容に期待していた反動としての失望だったようです。
ただ、これが正しい情報かどうかわからないのですが、講義は隔週の「日曜日」に計5回行われたとのことです。朝永博士は、東京文理科大学の講義や業務との掛け持ちだったので、東京大学には日曜日しか行けなかったのかもしれません。また、学生も勤労動員のために、日曜日しか時間が無かったようです。輪講形式の授業も合計4回(1945年8月におまけの1回があったそうですが、、)でした。
しかしながら、講義以外の場面で朝永博士の指導に傾倒していた上記4名は1944年11月に「愚問会」を結成します。これは、朝永博士不在の講師室に集まった4名が、空襲にもめげずに勉強会を開催し、互いに疑問を投げかけた会合だったようです。
朝永博士もこの頃になると先進的文献を東大生に推奨するようになっていたようで、1938年イタリア誌掲載のパウリ博士(Wolfgang Ernst Pauli)とフィエツ博士(Markus Eduard Fierz)による論文(二人ともスイス人で文章はドイツ語)に当たったと早川幸男氏は回顧されています。
この愚問会も、冬季通例の朝永博士の体調不良や米軍による空襲の激化、焼け出し、などで1945年3月には一旦の散会となったようです。福田博氏は愚問会発足直後の1944年12月に、宮本米二氏は1945年4月に、それぞれ召集され、所属は軍隊となりました。病気がちだった木庭二郎氏は1945年3月の東京大空襲で自宅が消失、物理学科の疎開先だった長野県の諏訪に移動しました。早川幸男氏は、この頃、中央気象台(気象庁の前身)宇宙線研究室(当初の所在地は不明ですが、1945年5月に空襲で被災すると同年7月に長野県小諸に疎開したようです)での勤務となりました。
それでも、1945年3月ころまでは、病室の朝永博士を訪ねて有益な助言を得るなど、愚問会の活動はとても熱心なものだったようです。
なお、戦後に愚問会は再開され、後には最先端研究者の交流の場となったとのことです。
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
↓ 朝永博士の講義(1960年)。こちらから転載させて頂きました。
