2025年03月31日

朝永振一郎博士と島田市 020 終章

 朝永振一郎博士と島田市との関係を考察するシリーズはこれで最後です。

 戦後、朝永博士は島田理化工業の顧問を務められました。島田の海軍研究所の関係者が戦後に設立したマイクロ波技術の会社という繋がりが重視されたためと思われます。後に島田市長となった森昌也氏も顧問の一人でした。

 下記上段の写真は島田理化工業において撮影された集合写真の一部を切り取ったものです。知る人ぞ知る「凄い」面々です。朝永博士や小谷博士についてはすでに触れてきましたが、岡村総悟博士と渡辺寧博士についても述べずにはいられません。日本の電子工学の発展に大きく寄与されたお二方です。半導体集積回路や光ファイバ通信という全く新しい技術分野で世界の最先端を創造する、そのような偉業を成し遂げたお弟子さん達を数多く輩出されています。

 1949年に朝永博士は米国ニュージャージー州プリンストンにある高等研究所から招聘され、量子力学研究を米国で進められました。ここで有名なアインシュタイン博士と同僚になりました。どんな議論が交わされたのでしょうか?なお、プリンストン高等研究所は篤志家による私立研究所である旨、強調させて頂きます。下記中段はその全景です。また、この年に東京文理科大学は東京教育大学となっています。

 朝永博士は1956年、50歳の時に東京教育大学の学長に就任されました。現在の感覚からは「かなり若い学長」です。その際、「政治家になってしまった」と周囲にこぼされたそうです。朝永博士の祖父に当たる方もある意味で政治家だったので、そのDNAが発現されたのかもしれません。祖父の朝永甚次郎(かんじろう)氏は大村藩(現在の長崎県)の俊英家臣として明治維新を迎えたようで、1871年の岩倉具視遣欧使節団に旧藩主と共に加わっています。また、この「政治家になってしまった」時期、朝永博士は様々な要職を担う忙しい中、世界の平和運動にも積極的に参画されています。

 下記下段は朝永博士の授業風景です。後ろの席の学生にも分かり易いように太くてしっかりとした文字で板書されています。教育者としての配慮が滲み出ている一枚と感じ入りました。

 以上、「朝永振一郎博士と島田市」の連載(000~020)を最後までご高覧頂き、誠にありがとうございました。ご意見など、頂戴できれば幸いですし、間違いなどのご指摘はさらに歓迎させて頂く所存です。どうぞよろしくお願い致します。なお、本連載は島田科学技術教育振興会の活動の一環として準備させて頂いた旨、末筆にてご案内させて頂きます。

 このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ 島田理化工業での集合写真からの切り抜き。左から岡村総悟博士、渡辺譲博士、朝永博士、渡辺寧博士、小谷正雄博士。こちらから転載させて頂きました。
↓ プリンストン高等研究所。こちらから転載させて頂きました。
↓ 東京文理科大学での朝永博士の授業。板書をきちんとされています。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 04:45Comments(0)朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年03月30日

六合踏切の謎

 東京に住んでいた頃、西武鉄道の踏切は身近な存在でした。それを思い出しつつ、島田市六合地区にあるJR東海の踏切との比較をしてみます。

 西武鉄道は踏切の多い鉄道会社として有名でしたが、今でも多い部類のようです。他の鉄道会社が高架化を進める中、取り残されているという印象がありました。西武線の駅の近くや西武線の反対側に目的地がある場合、自動車で出かけるにはある種の覚悟が必要でした。

 ですが、踏切渋滞は近隣住民の悩みの種であり、それは全国共通です。踏切渋滞に対して西武鉄道が施していた種々の工夫、これを感じ取ってはいました。高架化や立体交差は本格的な解決策ですが、莫大な費用が必要です。知恵を絞った小さな工夫の積み重ねで踏切が便利になれば素晴らしいと思われます。もちろん、安全性が担保された上での話ですが…。

 私が気付いたのは、以下のような工夫でした。
1)駅のすぐそばにある踏切では、ホーム停車中の列車が動き出す直前に遮断機が下りました。
2)列車通過後、間髪入れずに遮断機が上がりました。
 いずれも、踏切渋滞を少しでも解消するための努力の現れと思われます。現在はAIを利用した事故防止方策なども検討されているようです。

 六合にあるJR東海の踏切では、踏切渋滞の結果として、近くに並行する県道の渋滞まで引き起こしていることが多々あります。上記の1)や2)に類似の工夫によりその渋滞の軽減を図ることができるのではと考えてはいけないのでしょうか?特に2)はすぐにでも実施できそうですが、、、謎です。

↓ 西武線。踏切とホームが接しています。こちらから転載させて頂きました。
↓ 人工知能で事故防止。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 04:30Comments(0)六合

2025年03月29日

島田市岸町にある大日山瞰川寺の歴史

 島田市の岸町にある大日山瞰川寺はかなり異色の仏教寺院です。今回はその歴史について考察してみたいと思います。 資料「【しまだ市民遺産】大日山」、「島田風土記 ふるさと六合」、「大日堂の縁記」、「大日堂縁記 追記」などに依拠して進めます。

 上記資料によると、大日山には二体の大日如来像があって、火の粉を浴びた昔のものと2007年に遷座したものとのことです。この場合の「遷座」は大日山の外から移動させて安置したと解釈しました(※)。大日如来は未(ひつじ)年生れと申(さる)年生れの守り本尊ですが、大日山では子供達も守ってくれるようです。火の粉を浴びた大日如来像は「弘法大師一刀三礼(いっとうさんらい)の作といわれ」とあります。これは千葉県の成田山新勝寺の御本尊不動明王像と同じ表現です。新勝寺の不動明王像は嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻開眼されたそうなので、遅くとも嵯峨天皇在位最終年の823年までに作られたと考えられます。大日山の大日如来像も同様だとすると、1200年の歴史が刻まれているということになります。京都観光のキャッチフレーズと同じです。
※)仏具店から納品されたものを高野山蓮華院にて入魂式を執り行った後に大日堂に安置頂いたという経緯のようで、「入魂」したものを高野山から「遷座」したという意味合いと思われます。

 続いて、「三代の法孫空也律師が師命を帯び真言密教弘宣流布のため岸村奥ノ谷に錫を留め(=滞在し)、真言宗竜雲山瞰川寺を建設」とあります。空也上人は922年に尾張国分寺にて出家し、「若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、『南無阿弥陀仏』の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行った」とされるので、岸村に瞰川寺(川を見下ろす寺)を建設したのもその一環と思われます。「大日山=瞰川寺」は約1100年の歴史を刻んでいることになります。岸村の歴史も1100年以上ということですね。

 時代は下って1676年、その年の岸村の「本田高水帳」に「大日領1石」が記されています。これを以ってそれ以前からの大日山の規模が推定されるようです。

 1706年には大日如来像が草堂(=草庵、草ぶきの家)から山腹に移され、現在地における堂宇建立が発願されたとのこと。堂宇とは四方に屋根が張り出した建物のことだそうで、1713年に田中城裏鬼門除けとしての建物が完成したようです(※)。この説明文に拠れば、大日如来像の遷座が本堂建立に先んじたことになります。
※)この時に大日堂が完成したとする説もあるようです。

 当時の田中藩城主は内藤弌信(かずのぶ)という人で、大坂城代に栄転する直前の出来事だったようです。ここで「発願」という言葉が大きな意味を持ちます。岸村の村民(岸村庄屋の森下三右衛門と成岡與左衛門という人が世話役だったとのこと)が「建物を建てたい」と願い出たということです。そして、おそらくは、内藤氏が許可したはずです(大日如来像の由来を知ってその価値を認めたという説もあるようです)。この起源により、大日山瞰川寺は最初から無住寺院(住職のいない寺)だったと思われます。爾来、「村民の、村民による、村民のための大日山」の歴史が刻まれてきました。

 さらに、1768年に大日堂が完成します。総工費は五十五両余で、田中城お抱え棟梁の木原光右衛門(藤枝宿白子町(現在の本町))という人が携わったそうです。田沼意次が相良城主および老中になった頃です。関係があったのでしょうか?約260年前です。大日堂は、残念なことに、1973年に火事(タバコの火の不始末という説があります)で焼失してしまいましたが、燈籠一対(道悦島村庄屋の塚本藤蔵という人による寄付)は現存しています。

 仁王門は1802年完成、石垣は1806年完成、鐘堂は1814年完成と、現存する建築物はいずれも築200年を刻んでいます。
 
 身近にあったので今まで気づきませんでしたが、改めて調べてみると、現在の大日山に残る大日如来像や建築物は大変に貴重な歴史を刻んでいることが分かりました。そして、それは岸村の、現在の岸町の、人々の祈りの積み重ねの上に成し遂げられてきたものと感じ入りました。

補記:大日如来を本尊としているので基本としては真言宗の寺院なのでしょうが、瞰川寺を開山した空也上人は超宗派的立場を保った人物と言われています。現在は曹洞宗の僧侶に祈祷や読経を依頼していますし、新しい大日如来像の入魂は高野山で行われました。ですので、大日山は村民に立脚した超宗派的寺院だった、そして現在もそうであると位置付けられるのが妥当と考えます。

↓ 弘法大師の子どもの頃。こちらから転載させて頂きました。
↓ 空也律師像。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 05:11Comments(0)六合

2025年03月28日

シミュレーション技術の落とし穴

 今回はシミュレーションの話をします。シミュレーションと言ってもネイ〇〇〇選手が得意と言われる「アレ」ではなく、計算機シミュレーションの事です。計算機シミュレーションを実施するための装置をシミュレーターと言います。疑似体験装置もシミュレーターと呼ばれますが、ここでは計算機シミュレーションに対象を限定します。

 シミュレーターは様々な予測を助けるために用いられます。我々にとって最も身近なシミュレーターは天気予報です。コンピューターに未来の大気や水の動きを計算させ、天候の予測が予報として我々に提供されます。100%の確率で「当たる」訳ではありませんが、予定を立てたり災害に備えたりする上ではとても便利で日々の生活に役立っています。

 シミュレーターは天気予報の他にも様々な場面で利活用されています。飛行機の設計においてシミュレーターが用いられるのは有名です。「こういう構造にするとこのような空気力学特性や構造強度、熱発生分布が得られる『はずである』」という答をあらかじめ与えてくれます。実際に機体を作る前に、設計した構造に変更や修正を加えるための見当が与えられ、テスト費用や製造コストが大幅に圧縮されます。

 スマホやコンピューターに搭載される集積回路の設計でもシミュレーターは大活躍です。最近のマイクロプロセッサにはトランジスタが数十億個搭載されるので、設計にはコンピューターの助けが必要です。回路を試作する前にその動作の予測を、設計の良否の判断材料を、与えてくれるのがシミュレーターです。

 他方、「計算機シミュレーションを信用していない」という技術分野があることを私は知っています。

 シミュレーターの基本動作は、一般に、対象となる物理現象や化学反応を記述する数式の解をコンピューターに算出させることです。用いられる数式は原理原則から導かれていますので、ほぼ間違いのないものです。が、計算で必ず必要となるのがパラメータと境界条件です。パラメータとは、例えば、物質などの性質を規定する定数(あるいは変数)です。境界条件は計算の対象となる空間と外部との境界の条件の事で、そこでの値や振る舞いを定めてから計算を進めます。多くの場合、これらの設定がシミュレーション結果を大きく左右します。つまり、同じ対象に同じシミュレーターを施しても、パラメータと境界条件の選択次第では結果が真逆になることもあるわけです。

 先の例として挙げた天気予報や航空機設計では、パラメータと境界条件の選び方がかなり突き詰められているので、十分に高い正確性が担保されています。要点はその「突き詰め」が如何様になされるかです。それが厳しければ厳しいほど、回数が多ければ多いほど、シミュレーターの性能は上がります。

 天気予報は好例を与えてくれます。まず、予報(=シミュレーション結果)の正否が万人の目で即座に判断されます。予報を打ち出す側としてはかなりのプレッシャーとなっていると思われます。予報が外れた場合には「間違った原因は何か」の徹底追及がされるはずです。この追及は、おそらく、1年で365回行われるのではないでしょうか。毎日ということです。この高頻度のチェック機能こそ、シミュレーターを育てます。

 これに対して「1度の間違いが許されない」対象のシミュレーションもあります。そのような場合には、パラメータと境界条件の突き詰めに「回数」を重ねることができません。従って、部分的な実験や小規模試験機でシミュレーション結果の正確性を「確かめる」という補足が不可欠になります。航空機設計シミュレーターではその積み重ねが十二分になされていると考えられます。

 ところが、「1度の間違いが許されない」上に「実験や試験機による確認が困難」という対象があります。このような場合には、シミュレーターの正確性を高める手段がありません。結果、「計算機シミュレーションを信用してはいけない」という技術判断となります。多くの場合、「安全係数を大きくとっての無難な判断」が妥当という結論となります。あるいは「計画の実施をとりやめる」という判断もあり得ると思われます。

 この「1度の間違いが許されない」上に「実験や試験機による確認が困難」という対象、どんなものがあるでしょうか?皆様にもお考え頂ければ幸甚です。

 ここでの結論を最後に書いておきます。「シミュレーション技術には精度の高いものとそうでないものがあることを認識し、精度の高いシミュレータへの信頼度を精度の低いシミュレーション結果にも当てはめてしまい、回避すべき失敗の可能性を見間違う愚(落とし穴)を犯してはならない」となります。

↓ 将来の飛行機構造の一つとしてシミュレーションされた機体。こちらから転載させて頂きました。
↓ 南米の収穫天気予報図。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 04:18Comments(0)島田市島田科学技術教育振興会

2025年03月27日

女子サッカー その6 米国少女数百人の集いを目撃しました

 今回は大学から派遣されて米国ニュージャージー州の研究所で客員研究員をしていた時の話です。

 1996年4月からの1年間、米国東海岸のニュージャージー州に滞在していました。交通規則や車検の方法が前に滞在したことのあるカリフォルニア州と随分と異なっていたのが印象的でした。どちらかと言えば、日本に近いという印象を持ちました。また、隣のニューヨーク州の交通規則が微妙に異なっていたので、米国は地方分権の国だと痛感したりしていました。

 休日に女子サッカーの練習があるというので見学に行くことにしました。冬の寒い朝でした。会場はサッカーコートが3・4面取れるという広大な天然芝の広場でした。驚いたことに、数百人の体操服姿の若い女性が集っていました。中学生か高校生か遠目には判別しにくい年ごろの少女たちでした。彼女たちは男性コーチの指導の下、一斉にサッカーの練習を始めました。トップを目指す練習にしては一指導者当たりの選手数が多かったので、おそらくは、初心者用のサッカーキャンプだったのではないかと思われます。もしかすると学校単位だったかも知れません。

 個人主義と言われる米国でもこれだけの「殺到(皆が同じ方向を向くという意味です)」があるのだと驚きましたが、「これこそがサッカーマム現象かも」と合点がいきました。

 サッカーマムとは「サッカーのチームスポーツとしての高い協調性が注目され、社会に出てからの人間関係に大切な協調性を養わせるために、教育熱心な母親が子供にサッカーを習わせること」の米国における流行です。私の記憶では、ミア・ハム(Mariel Margaret Hamm)選手が米国代表で活躍し始めた頃に始まったように思われます。1996年アトランタオリンピックで米国女子代表は金メダルを獲得して、サッカーマムは現象となりました。私の上記の体験はそのような時代背景に基づくものだったようです。

 ついでに、私が上記の見学で驚いた事をもう一つ記しておきます。それはサッカーコートに敷設されていた天然芝です。その芝は、冬でも青々としていたのですが、葉の大きさが私の知識を超えていました。高麗芝の葉の数倍はある面積を持っていました。正直なところ「これを芝と呼んでよいのか」という大きさでした。日本のオニ芝の葉よりも大きかったかもしれません。もちろん、丁寧に刈り揃えられていたのでブレーに支障は無さそうでしたが、「芝と言ってもいろいろとあるものだ」と感銘を受けました。

 日本で芝生というと目の細かい高麗芝か冬でも青い洋芝ですが、それらとは全く違ったニュージャージーの芝でした。もしも耐久性が良く管理が容易であれば、気候が似ている日本でもこの芝(※)を導入してはどうかと考えたりしたものです。

 ちなみに、ニュージャージーの州立大学のラトガース大学は芝生研究機関として有名なのだそうです。

※)葉が大きく冬も緑の芝草は、一般に、寒冷地用とのこと。日本の暑い夏を耐えきれないかもしれません。

 このシリーズはこちらに続きます(最新記事がアップされたらそちらが表示されます)。このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ サッカーマム。こちらから転載させて頂きました。
↓ ラトガース大学。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 06:33Comments(0)趣味

2025年03月26日

天空の池 南アルプスの山頂は水も緑も豊か

 かつて登山を趣味にしていたころ、南アルプスの山々が好きでした。機会があれば南アルプスの百名山に挑戦していました。結果、塩見岳を除く南アルプスの百名山の山頂に立つことができました。そこで目にしたことを以下に記します。

 最初に挑んだのが南アルプスの北端にある仙丈ケ岳や甲斐駒ヶ岳でした。そして、赤石岳と荒川(悪沢)岳、北岳と間ノ岳、光岳と聖岳などに挑戦しました。

 最初の頃に、二つのことがとても印象に残りました。現在も変わりはありません。「森林限界標高が高い」と「崩壊が激しい」ということです。

 南アルプスには3000m級の峰々が多々あるのですが、「高山=岩山」という他の山脈と異なり、山麓からかなりの高度まで森林が続いています。3000mを超える頂上付近でも植生が豊かです。これは山脈が南方に位置する上に降水量が多いためと言われています。

 他方で、隆起が他の山脈と比較して激しいため、その分、崩壊が激しいようです。特に、荒川岳でそれが顕著でした。大井川流域のダムが土砂で埋まるのが早いのはそのためです。しかし、高い森林限界標高は、おそらく、崩壊を抑圧する一助になっているはずです。

 さらには、「天空の池」とも思われる環境までもあります。尾根が森林で覆われている茶臼岳(2604m)付近では写真のような池が存在します。

 水も緑も豊富な南アルプス、その魅力がいつまでも続きますように心から願っています。

↓ この池がどこにあるか分かりますか?
↓ 小赤石岳(3081m)の雪渓。頂上付近まで植生。後方には赤石岳や荒川岳も。
↓ 荒川岳の中岳(3074m)の避難小屋。頂上付近まで緑。お花畑も。
↓ 中岳(3074m)のライチョウ。ヒナも写っています。食する緑の中に佇んでいます。
↓ 赤石岳(3120.5m)から聖岳(3013m)方面。二重の虹が縦方向に立っています。雪渓も見えます。いずれも水の芸術。
↓ 雲沸き立つ南アルプス。水が無ければこれも、、、。
↓ リニア中央新幹線ルート。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 05:54Comments(0)島田市

2025年03月25日

O-65サッカーを観戦しました

 65歳以上(over 65:O-65)を参加資格とするサッカー大会が開催されるというので見に行ってきました。

 あるよく晴れた午前中、横井サッカー場まで足を運びました。駐車場には静岡ナンバーの他に、長野ナンバー、山梨ナンバー、浜松ナンバーの自動車がたくさん並んでいました。これが噂に聞く三県交流シニアサッカー大会かと得心しました。

 試合はすでに始まっていて、白色ユニフォームのチームと藤色ユニフォームのチームが戦っていました。全盛期の運動量や走力は無理としても、選手の皆さんはとても元気でとてもとても上手でした。選手間の声掛けも大きく鋭く、各々のポジショニングやパスワークもさすがでした。皆さん、楽しそうで、羨ましい限り。次の対戦は空色ユニフォームのチームと赤色ユニフォームのチーム。こちらも熱戦でした。

 島田市の施設がこのような広域交流イベントに活用されるのは素晴らしいことだと感服した次第です。

 サッカーコートに目を転ずると、人工芝やナイター照明が整備され、利用しやすい施設となっていると感じました。子供用コート2面のラインがデフォルトで引かれているのもさすがです。ただ、スコアボードが見当たらなかったので、どうしたのだろうと訝し気に感じました。

 横井サッカー場は大井川の堤防の脇に位置するため、日当たりは抜群で、明るい感じが好印象でした。ただ、夏の人工芝は相当に暑いかもしれないとも感じました。また、大井川の強風はなかなかのもので、選手のボールコントロールに強い影響を与えていました。自然環境として仕方がないものとはいえ、防風ネットが有効かもしれない、、、などと独り言ちました。

 コートの脇にはロッカールームとトイレが設置されていました。当然ですが、男性用と女性用が区別されていました。ロッカールームが少し狭いかなと感じましたが、まずまずではないでしょうか?シャワーの存在は確認できませんでしたが、備わっているとすれば素晴らしいと思われます。

 ともあれ、楽しい時間を過ごせました。熱いプレーからは元気も頂きました。と同時に、耐摩耗性の高い天然芝コートが市内にあってもよいかもと感じました。

静岡新聞に掲載されているシニアサッカーの一場面。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 06:48Comments(0)島田市

2025年03月24日

超音速旅客機コンコルドの終焉


今回はコンコルドのことを述べてみたいと思います。

コンコルドと言っても駅前のパチンコ屋さんの事ではありません。超音速で大空を馳せていた旅客機です。フランスとイギリスの共同開発のコンコルドはマッハ2(音速の2倍)を超す高速性が売り物の旅客機でした。

フランスのシャルルドゴール空港に駐機されているコンコルドを、私は上空から見たことがあります。着陸間際のボーイング機からでした。ジャンボジェット機もすぐ隣に駐機されていて、両者の大きさを目視で比較することができました。率直なところ、「こんなに小さいのか!」と驚くようなコンコルドの機体でした。特に客席を収容する胴体部分がプロペラ機並みに細かったのが印象的でした。

それは、おそらく、コンコルドの最後の営業の頃だったと思われます。つまり、ジャンボジェット機との競争に負けたのが明確になった時期でした。コンコルドは合計20機が生産されたそうです。同時期(初飛行が同じ1969年)にデビューしたジャンボジェット機の生産は1600機弱でした。ジャンボジェット機は80倍の需要という圧勝結果を手にした訳です。

コンコルドはニューヨーク・ロンドン間やニューヨーク・パリ間に就航していました。ジャンボジェット機がニューヨーク・ロンドンの空港間を約5時間で結んでいたのに対して、コンコルドは3時間弱で飛ぶことができました。これほどの速度差があったのにコンコルドはなぜ80分の一の惨敗を喫したのでしょうか?

コンコルドではジャンボジェット機のファーストクラス並みの料金が設定されていたそうですが、座席はエコノミー席並みの狭さだったようです。お金で時間を買う必要のある層にはこれでもよいかもしれませんが、不満が出そうなコスパ条件です。

もう一つ要注意点があります。国際便の経験がある方にはご理解頂けると思いますが、飛行機での移動に必要な時間は「空を飛んでいる時間」だけではないという事情です。ビジネス街のマンハッタン島(ウォール街やエンパイアステートビルがあります)から国際空港のJFK空港までは、私が経験した時の話ですが、交通渋滞が無くても車で1時間は掛かりました(現在(※)の状況は把握していません)。ロンドン中心街(金融街のシティやバッキンガム宮殿があります)への国際空港のヒースロー空港からの移動にも同様の時間が掛かります。加えて、パスポートや荷物の確認のための時間、空港到着余裕時間や税関の時間がこれに加わります。空港の中で費やされる時間です。コンコルドの乗客が出入国手続きや税関で特別扱いされることがあったかもしれませんが、それでも合計で2時間程度は必要だったでしょう。911事件以降は空港セキュリティが強化されたので、さらに長い時間が必要だったと思われます。

ここで、マンハッタン島からロンドン中心街までの移動時間を比較してみましょう。コンコルドの場合は最短で7時間です。ジャンボジェット機では最短で9時間です。あなたならばどちらを選びますか?私にお金が十分あったならばという非現実的な仮定の下で選択させてもらうのなら、ジャンボジェット機のビジネスクラスを選択します。お金が無い場合には、もちろん、ジャンボジェット機のエコノミークラスです。コンコルドに対しては「試しに一回乗って超音速を体験しておしまい」でしょう、ファーストクラス並みのお金が準備できればですが。多くの人々がそのように思ったからこそ、コンコルドは終焉を迎えたのでしよう。

交通機関のビジネスは移動速度の高低だけでは優劣が決まらないということですね。同じ比較がJR東海のリニアモーターカーとのぞみの間にも成立してしまわないか、ちょっと心配している毎日です。「賢者は歴史に学ぶ」であってほしいところです。

※)2003年末からエアトレインJFKという新交通システムが運航しているようですが、マンハッタン島までの直接のアクセスは無く、途中で地下鉄やタクシー、バスへの乗り換えが必要とのことです。
↓ ブリティッシュエアウエイズのコンコルド。こちらから転載させて頂きました。
↓ PANAMのジャンボジェット機。こちらから転載させて頂きました。
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Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 06:45Comments(0)島田市

2025年03月23日

女子サッカー その5 米国女子に吹っ飛ばされました

 今回もカリフォルニア州の大学で研究助手をしていたころの話です。

 研究助手が机を並べる部屋の一角を仕事場所として頂きました。同室はフランス人とイスラエル人でした。フランス人は同じ教授の下での同僚で実験室に出入りする仲間でしたが、イスラエル人は分野が異なり、いつも机の上の端末に向かっていました。フランス人研究者とは仕事以外でも付き合いが広がり、休日のサイクリングやハイキングなどを一緒に楽しみました。驚いたことに、この人はスポーツ万能で、持久力にとても優れていて、テニスもとても上手でした。また、彼を通じて、カリフォルニアの若い人々がフランスに憧れていることも知りました。

 イスラエル人研究者は少し仲間外れになってしまっていたのですが、そのイスラエル人研究者が(珍しく)誘ってくれたので、夕食後の体育館にインドアサッカーをしに出かけました。大学の施設を学生や職員に開放していて、福利厚生の一環としてのインドアサッカーだったと思われます。

 その時に使ったボールは経験したことのないもので、初心者でもヘディングに恐怖心が沸かないようにと、外側がフエルトで覆われていました。通常のものよりも軽かったと思います。

 それもそのはずで、男女混合サッカーでした。最近では珍しくない大人の男女混合サッカーですが、私はその時が初めてでした。

 その試合で、私は米国人女性にショルダーチャージで吹っ飛ばされました。私に油断があったことは事実です。ルーズボールに対して、女性が対峙してきたので、「余裕でキープできる」と考えたのが間違いでした。

 アメリカの女性はこれほどまでにパワフルなのだと恐れ入った次第です。そして、何よりも、スポーツの場面でも男性に対して遠慮会釈なく、同じ立場をプレーで主張するのだとも。いわゆる負けん気がとても強いという感じです。

 これに通ずる経験を数年後にニュージャージー州で得たように思われます。紅葉(米国東海岸には日本と同じく紅葉前線があります)がきれいな公園(といっても、日本でいうところの自然公園並みの広さでした)に行ったところ、地元の女子高生の一団がクロスカントリーで山道を走っていました。クロスカントリーを専門とする選手という感じではなく、一般の女子高生の体育の授業という感じでした。日本の女子高生がどのような体育授業をやっているのか詳しくないのですが、米国の女子高生の体育授業は結構にタフではないかと推察しました。であれば、先のショルダーチャージの根本は体育教育にあるのではないかと考えられます。

 全くの余談ですが、床屋さんに行って髪を切ってもらった時のことを思い出したので、そちらも記しておきます。

 私の髪の毛はカリフォルニアの基準では相当に「固い」ようです。女性の理髪師に散髪をお願いしたところ、とてもchallengingだといわれました。カリフォルニアには結構な割合で東アジア人がいるのですが、私の頭髪は例外的に固い部類のようです。たわし頭と言われた政治家がいますが、その人には負けるかも知れません。

 また、私の座高は結構に高い(要は足が短い)ので、その理髪師はそれにも驚いているようでした。そのことを告げてSorryと言うと、なんと優しいことか、自分は胴が短すぎて悲しい思いをしているという衝撃的な発言を返してきました。ブラウスを着るとみっともないと言っていました。「なるほど、そういう人もいるのだ、世の中は広い」と感じ入った次第です。

 このシリーズはこちらに続きます。また、 このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ 大学の体育館。当時もこんな感じでした。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 06:00Comments(0)趣味

2025年03月22日

女子サッカー その4 小3女子選手の予測能力に驚く

 私は大学院博士課程を修了する前の1年間、東京都の狛江市の下宿に住んでいました。1987年頃です。今回は、私がそこで見た不思議な光景を紹介します。

 私の下宿は狛江市のグランドの近くにありました。そこから小田急線と千代田線を乗り継いで六本木にあった研究室に通っていました。とある日曜日、そのグランドでサッカー大会が開催されていました。小学校3・4年生が出場できる大会でした。グランド内に立ち寄り、子供たちのプレーや声援を送る父兄の姿を見て楽しんでいたのですが、ちょっと気になるチームに目が止まりました。

 「風林火山」という風変わりなチーム名で、男女混合でした。ユニホームはなく、各自の勝手な服装の選手たちから成り、その中にはスポーツの得意そうな男子選手もいれば、そうでなさそうな子(私の主観です)も混ざっていました。試合前の練習では選手同士の仲がよくとても楽しそうな雰囲気が滲み出ていました。半分は遊びと考えているのではないかという風景でした。監督は黒メガネにオールバックの男性で50歳ぐらいに見えました。ジャケット姿だったと記憶しています。大声を発することは無く、短い指示を出しては選手たちを見守るという感じでした。

 さて、試合が始まりました。相手は狛江市の選抜チームで男子だけの強豪でした。監督もトレーニングウエアを着た専門家という感じでした。さすがに選抜チームです。技術は高いし、両サイドの選手にはスピードがありました。一方的な試合になるかと思いきや、かの風林火山チームはかなり善戦していました。中盤を任された髪の長い女子選手は攻守に奮闘していました。ゴールキーパーの男子選手は大活躍です。運動の得意そうな男子選手は味方のカバーに走りまくっていて、ゴール前の混戦でも平気で浮き球のバックパスをゴールキーパーに送る技術の高さを見せていました(当時はゴールキーパーへのバックパスが許されていました)。

 父兄の一団はタッチライン際に並んでいましたが、これまた、他の父兄たちとは異なる雰囲気を醸し出していました。「〇〇ちゃん、△△して!!」と監督の頭越しに我が子を怒鳴る行為については当時から「やめたほうが」とされていましたが、風林火山の父兄たちは正反対でした。全く声を出さない代わりに「良いプレーに対して揃って大きな拍手」でした。教科書のようでした。

 その中で驚愕(と私の目には写った)プレーが飛び出しました。風林火山の左サイドには「運動が得意そうでない小学3年生(と私の目には見えた)」男女の小柄な選手が配されていました。男子選手がサイドハーフ、女子選手がサイドバックでした。選抜チームが風林火山の左サイドを攻めあがってきたので、サイドハーフの男子選手が浮き球を競りに前に出ました。選抜チームのウイングが競り勝ち、ボールは左サイドバックの女子選手の前にこぼれました。その女子選手はそのボールを体の中心でとらえて選抜チームの突進を止めました。そして、ボールはタッチラインを割り、風林火山は難なきを得ました。ある意味でよくあるプレーです。

 ですが、私は女子選手の真後ろに立って試合を見ていたのであることに気づきました。その女子選手は自分の立ち位置を1m右にずらしていたのです、男子選手の競り合いの直前に。すなわち、ボールがどこにこぼれるかまだ分からない時に。女子選手の予測に違わずボールは女子選手の下にまっすぐこぼれてきました。私自身、そちらにボールがこぼれるとは思っていませんでしたので驚いたのでした。

 これはどういうことでしょうか?女子選手が競り合いからこぼれるボールの軌道を事前に正確に予知したとしか考えられません。9歳ころの女子には一般的にこんな予知能力が備わっているのでしょうか?

 試合は地力に勝る狛江市選抜チームが勝ちました。監督は試合中もほとんど声を発せず、「黙って見ている」を貫き、試合後には父兄の前で深々と頭を下げていました。勝敗は別として、あの女子選手の予測行動がこの監督の下で培われたとすると、、、と考え、「この監督、相当に名のある方ではないか」と感じ入って下宿に帰っていった次第です。

 あの女子選手は年齢から逆算すると1978年生まれで、有名な澤穂希さんの世代です。澤さんは「狛江杯」に出場した経歴をお持ちらしいのですが、、、。

 このシリーズはこちらに続きます。 このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ 現在の狛江選抜チーム。当時もこんな色のユニホームでした。こちらから転載させて頂きました。
↓ 狛江市民グラウンド。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 07:50Comments(0)趣味