2025年02月27日

朝永振一郎博士と島田市 005 信号源理論研究の終了時期

 朝永振一郎博士が島田での単身赴任生活を開始した時点で、「テーブル上」の課題である航空機用レーダー信号源の理論モデル化が既に終了していたのではないかと指摘しました。その根拠を以下に記します。

(1)東京文理科大学の同僚だった宮島龍興博士(後の筑波大学学長、理化学研究所理事長)によれば、朝永博士はすでに1942年においてマグネトロン動作の本質を見抜く考察を得ていたとのことです。

(2)1945年4月、東京大学の学生が島田研究所に着任しました。後のミュンヘン工科大学教授で東京大学教授も務められた森永晴彦博士です。森永教授は手記に「島田研究所に到着した時、朝永先生はアオズリに目を通しておられた」と綴っています。アオズリ(青刷り)とは出版物の試し刷り版のことで、誤植や誤字脱字がないかを著者が確認するためのものです(現在は異なる方法が採られますが、かつては標準的方法でした)。つまり、朝永博士のレーダー信号源研究は報告書が取りまとめられ出版準備に取り掛かっていた状況だったと推察されます。実際、こちらでは「極超短波磁電管の研究」の原稿として2冊のノートが1944年にまとめられているとしています。

(3)朝永博士の御弟子さんの一人でノーベル賞受賞者の南部陽一郎博士は、この時期、陸軍の技術士官として大阪の陸軍研究所に所属しておられました。そこでの記憶を南部博士は述懐されています。「小谷先生が陸軍研究所に来所され、海軍の研究成果を紹介するセミナー講演をされた。海軍の進んだ研究はとても印象的だった。(筆者の意訳です)」戦時中の海軍と陸軍との非協力度合いは種々指摘されているところですが、南部博士の述懐は陸軍が頭を下げて朝永小谷理論を学ぼうとしていたことの証左と考えられます。これは、1945年4月の時点で朝永博士の理論の完成度はとても高かったということを暗示します。

(4)南部博士の回顧録では、朝永博士が散乱行列の手法を1943年後半には導波管に適用していたと記しておられます。

(5)日本各地の防空レーダーに実機が採用されたということは、機器製作に必要な時間を考慮すると、やはり、1945年4月以前の理論完成が暗示されます。

 ということで、ここでは航空機用レーダー信号源の理論モデルを構築する研究は1945年4月の時点で終了していたという立場を取ります。

 「朝永ノーベルロード」の地図をこちらにアップしました。

 このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ 朝永博士のメモ。お子さんからの手紙?に散乱行列。こちらから転載させて頂きました。

  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 07:36Comments(0)島田の科学技術朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年02月25日

朝永振一郎博士 ノーベル賞受賞ニュース動画(1966年)

 朝永博士のノーベル賞受賞は1965年ですが、動画では1966年と表示されています。また、受賞式は本来、スウェーデンのストックホルムで行われますが、動画では東京のスウェーデン大使館が舞台となっています。この謎の答は、、、、。

↓ 朝永博士と駐日スウェーデン大使。こちらから転載させて頂きました。
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 14:55Comments(0)島田の科学技術朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年02月24日

朝永振一郎博士と島田市 004 島田での単身赴任生活

 朝永振一郎博士が、いわゆる「テーブル上」として島田の海軍研究所で行ったレーダー信号源の研究ですが、実は、朝永博士が単身赴任で島田に住み始められた頃(1945年4月)には、殆ど終了していたようです。その証拠は次回に改めて列挙します。

 島田研究所での朝永博士は、主として、研究所員が試作する装置の動作や性能と構築済みの理論との擦り合せを業務とされていたようです。

 理論物理学の研究者には、実験担当者との関係において大別される二種類のタイプがあるようです。朝永博士は、理化学研究所時代の上司の仁科芳雄博士の影響もあってか、実験担当者との交流を重視されていて、島田の研究所でもそれを実践されていたようです。

 実験研究では、一般に、その進み具合によっていわゆる「待ち時間」が生じます。結果を出すための準備の時間です。装置を試作してみたり、改良してみたり、測定機器の調整を行ってみたり、、などに費やす時間です。この「待ち時間」は、当然ですが、朝永博士の「待ち時間」でもあったはずです。

 とすると、朝永博士が「テーブル下」の研究をも島田で行う時間があったのではないかと考えるのは自然です。もちろん、職場である研究所でそれを行うことはなかったはずですが、稲荷町の宿舎に帰った後、あるいは「朝永ノーベルロード」を歩いている時に、量子力学の課題の検討に時間を割いておられたのではないでしょうか?

 東京では空襲に追われ、焼夷弾の消火活動にも当たり、食事の準備さえも自ら行っていたとされる朝永博士です。東京文理科大学も1945年5月の空襲で建物の大半が焼失してしまいました。対して、島田の宿舎では平口家による上げ膳据え膳だったようです。先述の小学生U.A.氏は実際に朝永博士のお世話をした婦人にインタビューをしていてその旨を確認しています。空襲の頻度も激減したはずです。皆さんならば、この環境の改善をどう活かしますか?

 もちろん、多くの方々が命を落とされた戦時中に海軍の研究に当たっていた者としての責任感からと拝察されますが、朝永博士は島田における自らの研究課題の実施に全く言及されてはいません。書籍「回想の朝永振一郎(松井巻之助編、みすず書房)」によれば、「先生ほど公私の区別を明らかにした人はいない」とされた父親の朝永三十郎博士の性格を「まったく受け継がれた」という朝永博士です。さもありなんかと。従って、我々は推論を重ねるしかありません。

 また、朝永博士ノーベル賞受賞のニュース動画が残っていましたので、こちらにアップしました。ご高覧を乞う次第です。
 このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの初回はこちらにあります。

↓ 当時の東京(中央区)での対空襲消火作業。朝永博士が遭遇されたと思われる城北大空襲は1945年4月13‐14日にありました。こちらから転載させて頂きました。


  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 13:48Comments(0)島田の科学技術朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年02月23日

朝永振一郎博士と島田市 003 マグネトロンと導波管

 朝永博士と小谷博士が島田で行った研究は、レーダー信号源を構成するマグネトロンと導波管に対するものでした。

 マグネトロンは真空管の一種で、直流の電流を入力に流すとマイクロ波帯の高周波信号(10GHz)が出力に発生するという装置です。東北大学の岡部金次郎博士(当時講師)が学生を指導する実験授業の中で見出した発振現象が端緒となって発展していた装置でした。が、朝永博士の研究の前までは、その動作メカニズムが理解されておらず、経験則に頼る試みが主流でした。

 朝永博士は量子力学の手法をこれに適用し、見事に動作原理を解明されました。これによりマグネトロンの性能が急速に改善されたようです。

 導波管はマグネトロンで発生したマイクロ波信号をアンテナに導く部品です。この部分の効率はとても重要で、レーダーの性能を左右します。効率が低いとせっかくのマグネトロンのマイクロ波信号が十分なパワーでアンテナから空中に向かって発せられませんし、探知の対象物から返ってきた電波の検出も困難になります。

 朝永博士はこれに対してハイゼンベルク博士が発案した散乱行列の手法を適用しました。ハイゼンベルク博士は量子力学の問題に対して散乱行列の手法を提案していたのですが、朝永博士は導波管の理論に用いたのです。

 皆さんは電子レンジをよくお使いかと思われますが、マグネトロンと導波管はまさに今日の電子レンジに用いられています。実際、日本で最初の電子レンジは朝永博士と小谷博士の薫陶を受けた島田の企業が戦後すぐに試作しています。電子レンジを使って何かを温めたり調理したりする時、朝永博士と小谷博士、そして島田のことを思い出されるのも一興ではないでしょうか?

 とまれ、島田の海軍研究所で開発されたレーダー信号源は航空機用としては十分な強度を備え、日本各地で防空レーダーに使われたようです。

 このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ 現代のマグネトロン。こちらから転載させて頂きました。

  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 17:29Comments(0)島田の科学技術朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年02月22日

朝永振一郎博士と島田市 002 日本学士院賞受賞

 朝永振一郎博士が島田に単身赴任をされた際、そこで行った研究はどんなものだったのでしょうか?

 まずは、いわゆる「テーブル上(表向き)」の仕事であるレーダー信号源の理論研究にフォーカスします。

 この研究の成果は、戦後の1948年に日本学士院賞を受賞しています。東京大学教授の小谷正雄博士との共同受賞でした。小谷博士は明仁上皇の家庭教師としても有名な方で、島田の海軍研究所では朝永博士の同僚でした。後に東京理科大学の学長も務められています。

 ここで注意頂きたいのは、海軍の研究であったにも拘らず、戦後の進駐軍の統制下で表彰を受けたという点です。高い平和転用可能性が評価された結果ではないかと推察されます。

 実際、我々の日常生活では両博士の成果に大変にお世話になっていますし、工業応用も各所で行われています。

 次の003ではレーダー信号源の研究の概要について説明します。

 このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ 日本学士院賞の審査要旨

  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 12:51Comments(0)島田の科学技術朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年02月21日

「急がば回れ」の連歌師宗長と島田と今川


 駿河国初代守護の今川範国。範国の14世紀から下って100余年、15世紀半ばの島田に異才が誕生しました。鍛冶屋の子弟として生まれたのは後の連歌師の宗長です。

 宗長は今川氏に仕えながら連歌師としての修練を始めたようです。歴史の教科書にも出てくる連歌師の宗祇に師事した宗長は「急がば回れ」を最初に唱えた人としても有名です。

 島田駅前(北口)に宗長の碑がありますので、市民の皆様には訪れて頂くことをお勧めします。

↓ 宗長さん。こちらから転載させて頂きました。

  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 11:11Comments(0)駿河守護 今川

2025年02月21日

朝永振一郎博士と島田市 001 ハイゼンベルク博士との類似

 朝永振一郎博士は1945年4月よりも前から島田の研究所(海軍研究所)に出入りされていたようです。

 その契機は1944年4月に島田で開催された中間子研究会でした。当時の原子核研究の精鋭が島田に集って激論を交わしたようです。なお、島田の海軍研究所では航空機を探知するためのレーダー信号源の開発が行われていました。

 ところで、朝永博士の島田単身赴任4ヶ月を短期間と見るか、重要な発案をするに十分と見るか、どちらと考えるべきでしょうか?

 ここでは、朝永博士の師匠のハイゼンベルク博士(Werner Karl Heisenberg  1901-1976)の例を挙げて考えてみましょう。ハイゼンベルク博士の行列力学は物理学を専門とする者であれば誰もが知っている偉大な概念です。ハイゼンベルク博士はこの概念に関連する重要な発案を北海の孤島(Helgoland島)で得たようです。花粉症に苦しんでおられたハイゼンベルク博士は、気鋭の研究者が集うコペンハーゲンから花粉の無いこの島に療養に来ていました。そこでの滞在は3か月弱だったようですが、この短期間に世紀の発案に至ったとのことです。

 花粉から逃れてきたハイゼンベルク博士と、東京の空襲から逃れてきた朝永博士。両者に共通項があると考えるのは私だけでしようか?

 因みに、優秀な理論物理学研究者にとって、「準備が整っていれば」が前提ですが、世界的な発想を得るのに必要な時間は一瞬のようです。実際、朝永博士は重要な発想を三鷹の通勤バスの中で得たこともあるようです。

 このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

↓ ハイゼンベルク博士
↓ ハイゼンベルク博士のヘルゴランド島
  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 11:06Comments(0)島田の科学技術朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年02月20日

パラボラアンテナと電波


 島田科学技術教育振興会では、科学技術に興味のある小中学生を対象に実験授業を提供させて頂いています。

 一例を挙げます。大型パラボラアンテナの嚆矢が存在した島田市。おそらくは当時の世界最大級。その技術の波及は、現在、世界中に及んでいます。島田の科学技術の歴史を踏まえた実験授業のひとつが標題です。

↓ 戦中の島田に長期滞在されていた小田稔博士による1948年の電波天文学。こちらから転載させて頂きました。

  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 13:31Comments(0)島田の科学技術島田科学技術教育振興会

2025年02月20日

朝永振一郎博士と島田市 000 朝永ノーベルロード



朝永振一郎博士と島田市の関係を調べました。調査結果をこれから少しずつ紹介させて頂きます。

朝永振一郎博士は、1945年4月下旬から同年8月中旬まで、島田に単身赴任されていました。約4か月間です。

その単身赴任の様子を夏休みの課題として調べた島田市の小学生がいました。彼女は、現在、大学生です。博士が朝晩歩いた道を「朝永ノーベルロード」と彼女は名付けました。

朝永博士のこの通勤路は現在の島田市稲荷町から島田市河原町までを結ぶ経路です。命名者の彼女がレポートに記したように、皆様も博士が歩いたこの道を辿り、博士の発想に思いを馳せては如何でしょうか?ノーベル賞級の発想が浮かぶかもしれません。

「朝永ノーベルロード」の地図はこちらにあります。

このシリーズはこちらに続きます。

↓ 朝永振一郎博士。こちらから転載させて頂きました。
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Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 13:20Comments(0)朝永振一郎博士島田科学技術教育振興会

2025年02月20日

今川範国と島田の岸城

 室町幕府が任命した駿河守護の初代は今川範国(いまがわ のりくに)です。

 今川範国が最初に築いた城が島田市の岸城と言われています。14世紀、鎌倉幕府が終焉を迎えた直後のことです。

 今から700年ほど前のことですが、どんな城だったのでしょうか?こちらをご参考ください。

↓ 今川範国の息子の今川貞世。こちらから転載させて頂きました。


  


Posted by 島田市岸町の工学博士 土屋昌弘(つちやまさひろ) at 13:15Comments(0)駿河守護 今川